- 菊池捷男
(補説)楚漢の戦いで活躍した大廈の材の二例
張良の場合
項羽軍と劉邦軍が、まだ秦を討つための友軍であった時期のことです。
秦の都・咸陽へは、先に劉邦軍が入ります。それを知った秦の3世・子嬰は、劉邦のところまで「城下の誓い」(城を明け渡して降参する意味)にやってきます。このとき張良は劉邦に、子嬰を殺すこと、阿房宮に入って財宝を奪うこと、および阿房宮の後宮に住む女性に触れることを、禁じます。
このことが、歴史に有名な鴻門の会(項羽が劉邦を殺すために呼び出したときの会)で、劉邦の命を救うのです。
韓信の場合
その後、項羽と劉邦は袂を分かち、両者の間で、乾坤(けんこん)(天下)をかけた長い戦いが始まります。
やがて、最後の戦いの時がきました。項羽が率いる楚軍は、劉邦が率いる漢軍を、鎧袖一触で破り、激しく追撃します。漢の軍勢は、四分五裂になって、垓下(がいか)にまで落ちていくのです。項羽は、今度こそは劉邦軍を追い詰めたと考えたのですが、なんぞ知らん、項羽が劉邦を追い詰めたと思った垓下こそ、韓信があらかじめ漢の兵を埋伏させた、項羽のために設けた死地だったのです。
その地で、劉邦軍は、項羽軍に対し、「四面楚歌」の策を施します。
すなわち、楚の歌を教えこんだ漢の兵士に、それを連日連夜、項羽軍に向かって、歌わせるのです。これにより、項羽軍は、故郷である楚の地がすでに漢に支配されたと勘違いをしたうえ、深夜、四方から流れてくる哀調を帯びた懐かしい故郷・楚の歌を聴き、望郷の情もだしがたく、脱走が相次ぐ結果になりました
。
その状況を目に見て、項羽は、愛する虞姫に向かって、「力は山を抜き、気は世を蓋う。時に利あらず騅(すい)(項羽の馬の名)ゆかず。騅のゆかざるをいかにすべき。虞や虞や汝をいかにせん。」と慨嘆久しくするのです。
最後は、虞姫が項羽の剣を持ち、最後の舞を舞い、自刃し(その血の中から咲いたのが虞美人草といわれています)、項羽は劉邦軍の雲霞の中へ突撃して生を終えるのです。